2004年11月05日

『妻を帽子とまちがえた男』オリバー・サックス

[ Book]

これも吉野朔実のブック・エッセイで取り上げられてた本.
著者は「神経科」という領域があるのかどうかわからないが,神経学が専門のお医者さん.映画『レナードの朝』の原作者でもあり,映画ではロビン・ウィリアムスが演じていたらしい(観てないので).

臨床医という職業柄,先天的または後天的な神経損傷によって正常ではない行動・反応をとる人々に多数接しており,それらの経験や考察をまとめたのがこの本...と単純には言い切れない本だよなあ...
症状とそれにまつわる患者のエピソードが中心なのだが,それについての医学的説明もかなりあるし,その一方で著者の考え方や患者に対する深い共感の念,さらには哲学のようなものも随所に顔を出している.

全体は4部で構成されており,第1部の「喪失」では,通常はあって当たり前の機能(体の感覚や記憶,知覚など)が何らかの理由で失われた患者がとりあげられている.機能がなくなったことに気がつかなかったり,失われた機能が他の機能の成長によって補われたりするさまを読むと,人間というのは絶妙のバランスで成り立っているのだなと感心する.

第2部の「過剰」はその逆で,病気などの理由で記憶や想像などの機能が亢進してしまい,それゆえに生活に支障をきたしてしまうよう患者が扱われている.正常ではない病気の状態のままでいさせてくれと頼む患者の話とか,有り余る想像力で自分自身の物語を作り続ける悲しい患者の話など,面白いだけでなく,色々と考えさせられた.

追想(ってフラッシュバックのことでいいのかな?)を扱った第3部とイディオ・サヴァンや自閉症などを扱った第4部は個人的にはイマイチ.読みながら何度も寝てしまったというのはここだけの話だ.

ということで,最後にいくつか引用を.

明らかに、そして熱烈に、彼はなにかやることを欲していた。なにかしたい、なにかでありたい、感じたい、だが求めるものは得られないのだった。意味とか目的といったものを、彼は望んでいた。フロイトのことばをかりて言うなら、「仕事と愛」を求めていた。(P.79)


このように考えると、われわれは、通常とは逆向きの流れのなかに立つことになりかねない。病気は幸福な状態で、正常な状態に復することは病気になることなのかもしれないのだ。興奮状態はつらい束縛であると同時に、うれしい開放でもあるのだ。しらふの状態でなく酩酊状態にこそ、真実が存在するかもしれないのである。これはまさしく、愛の神キューピッドと酒神バッカスの世界である。(P.195)


われわれは、めいめい今日までの歴史、語るべき過去というものをもっていて、連続するそれらがその人の人生だということになる。われわれは「物語」をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じるといってもよいだろう。

 ある人間のことを知りたければ、その人の「物語」、ほんとうの内面の物語はどんなものなのか聞けばよい。一人一人が一個の伝記であり、物語だからである。二つと同じものはない。それは、われわれのなかで、自分自身の手で、生きることを通して、つまり知覚、感覚、思考を通じて、たえず無意識のうちにつくられている。口で語られる物語はいうまでもない。生物学的あるいは生理学的には、人間は誰しもたいして変わらない。しかし物語としてとらえると、一人一人は文字どおりユニークなのである。(P.200)


 スーパー・トゥレット症患者は、真の人間、あくまでも「個」たる存在として生きるために、たえず衝動と戦わざるを得ない。ごく幼いころから彼は、真の人間となるのをはばもうとする、おそるべき障壁に直面することになろう。だがほとんどの場合――これこそ驚異と呼ぶにふさわしいが――彼は戦いに勝つのである。生きる力、生き残りたいという意志、あくまでも「個」たる存在として生きたいという意志の力こそ、人間のなかにあって最も強い力だからである。それは、いかなる衝動や病気よりも強い。健康は、戦いを恐れぬ雄々しい健康こそは、いつの場合も勝利者なのである。(P.224)