2004年12月06日

『人間の土地』サン=テグジュペリ

[ Book]

私は「ご趣味は?」と聞かれたら「読書です」と答えても恥ずかしくない程度の冊数は読んでいるつもりだが,いわゆる「読書人」とは程遠い存在であることは自覚している.
というのも,私は自分の楽しみのためだけに本を読んできたため(もちろん仕事関連は別),読んだ本のジャンルがかなり偏っているのだ.

最近はその傾向もすこしは是正されてきたような気もするが,世間で話題になった本であっても,私自身が面白そうだと感じない限り自発的に手に取ることは今でもない.
過去に話題になった本,つまり古典的名作についてはその傾向がさらに強くなるため,これまで読んだ本(作品)の中で,文学全集に載っているような文学作品が占める割合というのは壊滅的に小さかったりする.

そういう私にとって,小中高の国語の教科書や模試で扱われている文学作品は数少ない「文学体験」であり,それをきっかけに文学作品を読むということが何度かあったのだが,この『人間の土地』もそういう作品の一つ.
浪人生時代に受けていた通信教育の模試の問題として,この本の最後の数節が使われていた.
その短い文章にいたく感心した私は「大学に合格したら全部通して読もう」と心に誓ったのだが,喉元過ぎれば熱さを忘れる,大学に合格したときにはその誓いをすっかり忘れてしまっていた.

それから数年が経過した頃,何かの拍子に図書館で借りて読んでみたのだが,何かが違う.
問題で使われていたのは最後の方だけなので,それ以外の部分は初めて読むのだから違うも何もないはずなのだが,それでも「何かが違う」と感じていた.
何だろうこの違和感は?と思いつつ,ほとんど義務感だけで読み進めていったのだが,最後まで辿りついて叫んでしまった.

「俺が読んだのはこれとちゃう(=これではない)!」

ちゃんと覚えていたわけではないのだが,文章自体がまるっきり違っていたのだ.正確には書かれている内容は同じだったのかもしれないが,その文章から受け取る印象が全然違っていた.
その原因は訳者の違いだった.「○○訳はよくないので××訳を読むべきだ」みたいなことが世間で言われていることは,知識としては知っていたのだが,訳者が違うだけで作品から受ける印象が全然違ってくるということを実感したのはこのときが初めてだった.
だからといって,他の訳でもう一度同じものを読もうという気にはなれなかったので,その後,サン=テグジュペリの本を手に取ることはなかった.

で,ここからは最近のこと.私が読んで感心したのは堀口大學による訳であることが判明し,その直後にサン=テグジュペリについて興味を持たされるようなことがあった.
これも何かの縁だろうと,出張先の古本屋で探してみたら,見事に堀口大學訳の文庫を発見.そのまま買って帰ったものの,しばらくは積読本の山に埋もれていたのだが,時間を見つけて読み直してみた.

内容は,同僚の飛行士や自分自身の遭難のエピソードなどを題材にして,人間の存在というものを格調高く描いているとでも言えばいいのだろうか.
その理想像はあまりにもロマンティック&立派すぎて,なかなか真似はできないのだが,まあ,少しずつでも,ね.

問題の文章だが,堀口大學は戦前から活躍していた人らしく,えらく昔風の文章であり,読みやすいとは言い難い.でも,個人的には以前読んだ訳よりも好みだった.


というわけで,いくつか引用をして終わることにしよう.

彼は知っている、何人にもあれ、ひとたび事件の渦中へはいってしまったらけっして恐れたりするものではないと。人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。だが未知も、それに向かって挑みかかる者にとってはすでに未知ではない、ことに人が未知をかくも聡明な慎重さで観察する場合なおのこと。


彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線を覆いつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。


ただ、新しい機会がないため、適当な土地がないため、きびしい宗教がないため、彼らは、自分たちの偉大さを信ぜずに、ふたたびまた眠ってしまったというわけだ。もとより天稟は、人が自己を解放する助けとなるにちがいない、ただ、天稟を解放することも、また同じく必要だ。


 こうして、世代から世代へ、一本の樹木の生長に似た悠々たる進歩を続けて伝えられてゆくもの、それは生命であると同時に、また認識でもあった。なんと神秘な登山であることよ! 灼熱の溶岩から、星の練粉から、奇蹟によって芽生えた生命ある細胞から、ぼくらは生まれ出たのであったが、やがて、すこしずつ、ぼくらは自らを高めてきた、カンタータを書くまでに、天の川を測量するまでに。


彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。ぼくは憐憫を信じない。いまぼくを苦しめるのは、園丁の見地だ。いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は懶惰の中と同じように、落ち着けるものなのだ。近東人の中には、幾代も汚垢の中に住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。


なお余談だが,某研究室の前に貼ってある読書感想文の中に『人間の大地』とあった.確か私が以前に読んだ訳のタイトルも『人間の大地』だったと思うのだが,その研究室が研究室だけに,インドネシア文学のだったり,犬養道子さんのだったりするのかもしれない.でも,『星の王子さま』の感想文もあったしなあ...