2004年12月10日

『熱帯』佐藤哲也

[ Book]

書評系のウェブで紹介されていたのがきっかけで読んだ本.松山市立中央図書館で借りてきた.

そもそもこの作品に興味を持ったのは,熱帯になった東京で悪戦苦闘するシステム開発者のハードな話だと思っていたためなのだが,図書館で現物を手にとってみて驚いた.青い海の写真の上に丸々としたくらげみたいなイラストという非常にファンシーな装丁だったのだ.

もしかして思っていたの内容とは違うんだろうかと思いつつ読み始めてみたところ,とある南の島の奇妙な風習とその島の滅亡の話から始まり,その島民の末裔である主人公(なのか?)が勤める謎の国家機関「不明省」のついての説明が続く.

この不明省,原因不明なものごとを片っ端から吸い込んでしまい,なかったことにしてしまうという究極の「お役所」なのだが,

これは人間の人間による人間の行為の限界のために設けられた突破口にほかならない。いかなるものも不明省の管理下に置かれたその瞬間、それは失敗でも不手際でも不祥事でもなくなり、同じ灰色を帯びた不明の出来事となるのである。まさに不明省の存在によって、わが国は諸外国に対して誇示できる交渉の材料を獲得し、また国内にあっては未だにみたされることを知らない国民を相手にいつでも何かしらの約束ができるということになる。

という妙に現実感のある説明がされていて,実は霞ヶ関の奥底に実在しているんではないかと思ってしまったりもする.

で,その不明省が不明な出来事を分類・登録するために使っている情報システムに不備が見つかり,新たな情報システムの開発のために開発者が苦闘するわけなのだが,それは作品のごく一部分でしかなかった.作品の主な登場人物を紹介すると...

  • 幸せそうに料理を作ったりビデオを見たりする夫婦
  • 情報システムの仕様変更と開発ツールの使用強制に苦悶する開発者たち
  • 日本の伝統を取り戻すべく破壊活動を繰り返す政治結社
  • 不明省の管理する「事象の地平」を巡って暗闘を繰り広げる各国情報機関のエージェント
  • 人々の願いを聞き届けて人間界に介入する神々
  • 氷を抱えて滑走する水棲人
  • 形而上責めを炸裂させるアリストテレスとその他の哲学者たち

    さて,この登場人物紹介から作品のあらすじを想像できるだろうか?
    どう考えても破綻しそうなのだが,実はこれらの登場人物の登場には全て必然性があり,そういう意味では非常にまとまった小説だといえる.

    で,肝心の面白いかどうかなのだが,かなり読む人を選ぶ作品だと思う.
    私も最初は読んでいて「なんだこれは?」となり,特にシステム開発企業の紹介のくだりでは「筒井康隆の『兵隊出して号令』か?」と投げ出しそうになった.
    しかし,そのあとの説明を読んで「なるほど,これはそういう小説なのか」と納得.こういうのもメタ小説の一種というのだろうか.
    この小説の「お約束」が分かってしまえば,あとはそれを楽しめるかどうか.個人的には非常に楽しめたのだが,哲学とかホメロスの『イリアス』のことについて詳しければもっと楽しめたと思う.

    ということで,いつものように気に入った箇所の引用を.

    「運命は自分で選ぶものだ。流されるな。流れに負けるな」
     そう。運命は自分で選ぶものだ。流れに負けてはならないのだ。だからジョン・セールスマンは自分で運命を選んだのだ。そうに違いない。結末は自分で選ばなければならないのだ。ひじを引いて、背筋を伸ばし、目を閉じたまま顔をあげた。自分の内部に新しい意志が宿るのを感じていた。意志を感じて、そこで初めて自分が疲れていたことに気がついた。危うく疲れに流されるところだった。だが、もう大丈夫だ。
    「邪魔ですか? 邪魔ですね」