2005年08月20日

『愛と経済のロゴス』

[ Book]

大学での講義(=比較宗教論)が書籍化された『カイエ・ソバージュ』全5冊の3巻目.
前巻までは松山市立中央図書館で借りいたのだが,この巻と5巻はなぜか三津浜図書館にしかないので,そちらまで行って借りてきた.

今巻のメインテーマの「経済と愛」.某講義を思い出す学生さんもいるかもしれないが,今巻では,経済活動の奥底には欲望が存在しており,それは愛も同様,つまり経済と愛は欲望を通じてつながっている,とされている.

この経済活動を理解するために必要になってくる考え方が「交換」「贈与」「純粋贈与」というもの.

交換は,モノの等価交換が原則になるのだが,そこで交換されるモノは以前の所有者などの人との関係を断ち切ったモノ=「商品」であり,交換されるモノの価値は客観的(確定的)であろうとする.
これに対して贈与は,モノを媒介とするが,そこでやりとりされるのは交換では排除される人格的な何かであり,その価値(不確定で決定不能)は主観的なものである.
そして,ややこしいのだけど,今巻のキーとなる概念が純粋贈与.贈与の場合,それは返礼という形で逆方向の贈与が行われてモノの循環が起きるのだが,純粋贈与は返礼を期待しないタイプの贈与であり,それはモノの循環システム内の価値の「増殖」をもたらす(実際には同じものが価値の消滅ももたらす).実際には人間が純粋贈与を行うことは難しいので,自然からの贈り物と考えれば大きくは外していないと思うのだが...

で,この三つの原理を三つの円の重なりと考えると,贈与と交換の原理が交わるところに「商品」が,贈与と純粋贈与の原理が交わるところに「増殖」が当てはまる.
自然界からもたらされた富(増殖によって発生)が贈与と交換を通じて社会全体に流動することで,社会は豊かになっていく.この流動によって人々は自然の恩恵を意識することができた.
しかし本来流動するはずの富が前巻で分析された「王」によって貨幣という蓄積可能な形に変換されると,富の源泉は自然ではなく社会の内部だと意識されてしまい,自然を意識することがなくなってしまう.

このあと,増殖の象徴であるコルヌコピア(豊穣の角)や聖杯,重農主義やマルクス経済学など登場し,論が展開されていって,とても面白く読めたのだが,書いているうちに疲れてしまったので,興味のある方はぜひ読んでもらいたい.

しかし,三つの円の重なりをラカンのボメロオの結び目と結び合わせるというのが,私がボメロオの結び目という概念をちゃんと理解していないこともあるのだろうが,どうも無理があるような気がしてならない.
特に最後の方の第5章では,これをさらにキリスト教の三位一体にまで結び付けてしまった.うーむ...